日々を営んでいると、ちょっとした違和感に気がつくことがある。
ハラスメントというほどではないんだけど、「ちょっとこれは違うんじゃないか」と思うようなこと。それは、相手の伝え方だったり、見せ方だったり、態度だったり、話し方だったり。つまり、ふるまいに起因することが多い。
だって、明らかに悪いことをしたら、それは明らかにおかしいもんね。明らかじゃないから、ちょっとした違和感になるんだ。
で、こういうものの中でも、私は特に、自由や権利が軽んじられ、制限されることに対しては、割と強い怒りを感じるということが、だんだんわかってきた。
以前なら、「正直モヤっとするな。でも、まあいいか」で済ませていたことも、最近はそう簡単には済ませなくなってきた。自分自身だけだったら、それで大体のことは水に流せる。ただ最近は、これからの人がこんな目にあうのはちがうと。
そして、自分自身が今普通に生活している環境というのも、ただ与えられているだけでなくて、以前の人が違和感をそのままにしないで声を上げてくれたからこそ、享受できているのではないかと思うようになった。
ひとりひとりの「まあ、今回はいいか」という我慢が少しずつ積み重なって、見過ごされていく。いつの間にか自由が制限されていく。だから、最近は私の要求が通らなかったとしても、声を上げることに意味があると思い、行動することが増えてきた。
こういうときの声のあげ方も徐々にわかってきた。単に大きな声を出すだけではだめだ。
- ある程度団結して一人で戦わないこと
- 論点を整理して証拠を残すこと
- 然るべきところへ届けること
これらがなければ、声を上げても、問題として取り上げてもらうこと自体が難しい。
この点でいうと、劇薬としてSNSがある。私は、まだ「声を届けるための道具」としてSNSを使ったことはないし、これからも、使わずに済むのならば使わないかなと思っている。声を届ける力や共感を呼ぶ力が、問題意識に対して、想像を超えて強すぎることが予期されるからだ。
例えば、100人いるグループで5%が問題に思っていることがあるとする。その場合、3人か5人くらいで団結して声を上げればいい。残り95%の中にも、同じように違和感を感じている人はいるはずだ。でも、SNSユーザー100万人中5万人をハンドリングするつもりはないからね。
私は、私の手の届く範囲でおかしいと思ったことは、おかしいと提起する。そして、自分の手の届く範囲の今と未来の問題を解決したいんだから。